狂熱のシーズンふたたび
昨日若い友人たち(一回り違っているという衝撃の事実w)と呑んでいたとき、「ティムパークスって、わかんない人間には絶対わかんないよね」という話になった。
うんうん、と頷くオイラ。
「肯定的に書いていても、わかってねーなって思うのもあるし」
うんうんうん、と頷くオイラ。
「わかってねー書評をリンクしてたりすると、この人もわかってないんじゃないかって思っちゃうんだよね」
うんうんうんうん、と頷くオイラ。決して酔っ払っていたわけでは、多分ない。
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で、具体的にどの辺に違和感を感じるのかと、久方ぶりに、いろいろ書評を読み返してみました。
(本編は、つい最近読み返したばかり)
違和感を感じる理由は簡単でした。
変な書評は、ブリガーデを、「どうしようもない連中」としてしか位置付けられていないんだよね。
ごく「普通」の人間が、「普通」の自分とブリガーデの一員としての自分の間を行き来する姿が、あんなにいきいきと描かれているのに、なんで見落とす?
「演じる」というキーワードについて、なんできちんと考察しない?
たぶん意識的に、あるいは無意識にサポーターってもんをフリークスとして取り扱い、「自分とは違うもの」として認識しているんだろう。
んで、オイラ的に滑稽なのは、こういう人たちがジーコ解任を叫んでたりすることなんだよな。
きっと、正義感でサッカーと接しているんだろう。
お前等、それで面白いか?
...ま、知ったこっちゃないんだけどね...ちゅうか、数年前までオイラもそうだったわけだしさw
ただ、正義感でサッカーに接している人と、フットボールの文脈でサッカーに接している人が交わるのは、ほんの一瞬だけ。
この辺の危うさってのを、ジーコ解任を主張している人達は意識しておいた方が良いのではないでしょうかね、とまた余計なことを書いてみるw
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ちなみに、「正義感でサッカーに接する」という視点でみると、最近のもろもろの事件を取り巻く「雰囲気」ってのが、掴めるような気になってきますな。
オイラ的には、味スタの椅子に関するFC東京のフロントの対応なんざ、真剣にバカじゃねーのって思う。
INFIGHTの乱入もある程度理解できるし、その後の鹿島フロントのコメントの方が、FC東京フロントの対応より、よっぽどマシだと思う。
でもまぁ、正義感でサッカーに接している人が見たら、全く逆の感想になるんだろうw
ただねぇ、サッカーは、清く正しいスポーツとして発展して来たわけではないからね。
はっきり言って、正義感でサッカーに接している奴ってのは、ウザったいだけなんだよね。
こいつらが、こいつ等自身が忌み嫌う暴力と、実は同じライン上にいるってことを、近々作文してみたいと思っています。
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余談、ちゅうか懺悔を込めて。
狂熱のシーズンの書評の中で、一番外れてるような当たっているような、良くわかんない書評を書いているのがオイラでした。
自分でいうのもなんですが、論外だと思いますw