ゲームにおける「機能」としてのゴール裏
昨日から城ギャルとなった、オイラである。
城ギャルとして何をやればいいのかわからないので、とりあえず日刊スポーツの記事を読んでの感想を書いておく。
ファッキン、奥寺。
あのプレーを見せ続けてくれるんであれば、仮にどんなに人間として欠陥を持とうが、オイラは、城を支持し続ける(城ギャルとして日が浅いため、本当に人間として欠陥があるかどうか、なんてことは、もちろん知らんが。)。早くピッチに戻ってきてくれ。心より待つ。
あと、心ある城ギャルの方。
城ギャルの心得みたいなものがあれば、教えてください。って城ギャルがこの作文を読んでいるとは思えないところが悲しいが...このままだと「独立系」城ギャルになってしまうような予感をひしひしと感じている。
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昨日の試合とブーイングについて少々書いておく。
「ブーイングを当然」と思っている人間の文章をいくつか読んだ。「ふーん」てなもんである。
前半がクソだった?
その通りだよ。
5失点あるいは後半3失点は取られすぎ?
その通りだよ。
でもさ、ゴール裏にいてブーイングしていた連中、あるいはどこに座ろうが、ホームゲームを気取ってる連中に聞きたい。
で、お前は、スタンドで何をした?
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『ゴール裏というのは、もともと観戦に不向きなところであり、その中央に行けば行くほどゴールに接近して下がれば下がるだけ見にくくなる。
だから、あの地域というのは、必ずしも「観戦」が目的ではなくて、違う機能的な目的のために集まる場所だと思う。』
最近、オイラ的に感銘を受けた文章である。(流浪のサッカーバーGAZZA!!より。ちなみに本編のマリノスサポである奥山氏に関する記述については、オイラ的にはどうでも良かったりする)
「機能としてのゴール裏」
試合をしたり顔で論評するだけであれば、別に見難いゴール裏にいる必要はないだろう?
ホームゲーム気取るんであれば、どこに座っていようが、1観客を主張する前に、何らかの機能を果たそうとすべきじゃねーのか?
後半、チームは変わった。しかし城の退場の後、立て直すことができなかった。チームの心臓が引きちぎられた後、新たな心臓を生み出すことができなかった。
それは選手の責任か?
もちろん、そうだろう。
でもオイラは思うよ。俺たちの力不足でもあるってな。あの絶望的な流れを変えることができなかったのは、俺たちの責任でもあるんじゃないかってな。
そうじゃなきゃ、わざわざゴール裏に行ってる意味なんかねーだろう?
「昨日の試合は、ブーイングしなきゃダメだ」
結構結構。ありきたりな一般様式に従えば、その通りだ。別に否定はしない。
でもな、そのブーイングは、テメー自身にも向けられているってことを忘れるな。甘めーのは、テメー自身だ。
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「機能としてのゴール裏」というテーマは、今後引き続き取り組む予定。
本当は、もっと自分の中で熟成させてから書く予定だったが、昨日の試合がこのテーマとかなりシンクロするので、乱暴に頭出ししてみた。ご容赦。