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『山本昌邦 備忘録』感想文(予告の1日遅れ) 

「戦評を書くというのは、つくづく大変だねぇ」

『山本昌邦 備忘録』(以下、ヤマモト本)を読んでの感想。
『6月の勝利の歌を忘れない』を観た後にも思ったのだが、密着系取材者あるいは当事者が書いちゃうのって、なんか反則だよな。

だって、当事者が書いたもん読んだら、「それは正解」って錯覚するじゃん。
錯覚なんだけどさ(笑)
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小説、絵画、音楽、芝居、映画。

それぞれ作者のコメントが全てかって聞かれれば、全然違うわけで、現場の声だけに耳を傾ける必要はないし、現場の声だけを崇め奉る奴を見ると、アホか、って感じではある。

でも戦評を書く人間(俺的に言えば「良いサッカー」を追求する奴等)は、読者のその錯覚と戦わなければならない。
それってすごいパワーが必要だ。
誰もがどこかで「プレーヤー(選手・現場スタッフ)が一番」って思っているからな。

とてもじゃないが、俺には書けない(笑)
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まぁスポーツってのは、「勝つ」という目的はあるものの、「プロセス(シナリオ)」がないわけで、その「試合(作品)」に関しては、「プレーヤー(作者)」のコメントが、とても「重み」を持ってしまうという特徴はある。
これが、スポーツ批評の難しさであり、面白さなんだろう。

って、ここまでは一般論。

でもさ、これって、なんか「プレーヤー」の範囲を妙に狭く考えているんだよね。

だってさ、「目的」があって「プロセス」はないって状況を考えたら、「プレーヤー」の範囲ってもっと広げてもいいんじゃない?
「偶然が、結果に適度に影響する」サッカーというスポーツであれば、特にね。

ここで久々に暴言(ちゅうか電波発言)を吐いてみる。
少なくともサッカーに関して言えば、観客も含め、そのゲームに関わった人全てが、その「試合(作品)」における当事者である。

もちろん、「勝つ」という目的に近い人間であればあるほど、「重み」があるように見える。
でもそれは、単に目的からの距離の問題である。
そういう意味でヤマモト本は、同じ当事者であるサポーターが書く戦評と同様、当事者の情報のひとつである。
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珍しく、良いサッカーを語る奴らを弁護してみたりしているが(笑)、
・単にこの本のアラ(記述の具体性や山本の行動)を探している人間
・自分とではなく、トルシエと並べて「情報のひとつ」とか言ってる人間
は、どんなに論理的であろうが、俺的にはくだらねー奴だと思っているので、そこんとこよろしく。
↑誰によろしくなのか、さっぱりわかりませんが(笑)
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で、普通にヤマモト本の読書感想文を書くとすれば、やっぱりロシア戦のハーフタイムの話とトルコ戦の話が面白かった。

#しかし、自分に如何に書評を書く才能がないかを晒す作文になってしまったな、今日は(笑)

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