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才能がないことを自覚しているからこそ

珍しく、サポーターではなく、サポートについて。

すでに旧聞に属するかも知れませんが、先ごろのこの2つのエントリーは非常に興味深いものがありました。

サポートはファッションなのか?samurai-tochigi2005年05月13日)

やって見せ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねばサポーターは動かじサッカー蟻地獄2006年01月15日)

#あえて日付を書いたのは、そもそもサポティスタがサルベージし
 たのが、samurai-tochigiで書かれた半年後であることあることは
 意識したほうがいいと思うから。余程の粘着質でない限り、半年
 前に言ったことを議論の対象にされても困らない人の方が珍しい
 と思う。

samurai-tochigiに書かれていることは、至極真っ当なことだと思っています。圧倒的にシンパシーを感じると言ってもいいです。
だからこそサッカー蟻地獄に書かれている「技術」という言葉が胸にしみるのです。

専門家ではないので表面的な物言いになってしまいますが、最近の教育論に似ているかも知れません。
今まで軽視されていた「テクニック」「技術」に教育的な意味付けを行う、斎藤孝から始まった流れ。

#『子どもに伝えたい「三つの力」―生きる力を鍛える』とか、
 子供がいる方、あるいは部下を持つ方には、非常にお薦めです。
 あと最近では『ドラゴン桜』なんか、この流れですよね。

滅茶苦茶乱暴に要約すれば、努力を正当に評価しようという動き。
「努力しろ」というだけで、努力の仕方を教えないというのは、教育という意味で片手落ちではないか。努力を「技術」と捉えることで、目的や評価軸を明確にし具体化することで、対象者を、より早く本質に近づけられるのではないか、という考え。

#この要約に対する苦情は受けませんw

絵を描く楽しさを伝えようと、子供達に「好きなように書いてごらん」といっても、何も伝えることはできないってことですよ。もちろん飛び抜けた才能を選び出すためには、有効な手立てかも知れないですけどね。最低限の技術を身につけた後の方が、絵を描く楽しさを感じることができるのではないでしょうか。


で、この辺を今の横浜のサポートに当てはめてみると...

一体「必要な時」を感じ「必要な動き」ができる力を持った人間ってのは、一体どのくらいいるんでしょうか。
「必要な時」を感じ「必要な動き」ができる力って、先天的な才能だと俺は思っています。だからこそ、それを持つ人間を尊敬していますし、才能を持った人間でスタジアムを埋めたいと願っています。
そんなに遠くはないと信じているけど、でも、それはあくまで先の話。
実際には、少なくとも今は、才能がない人間も、サポートの現場で必要とされてしまいます。猫の手も借りたいという意味でね。

つか、こういうことを書いている俺自身が、この手の才能に欠如していることを激しく自覚しているわけで、所詮は猫の手なんですよ。
そんな俺みたいな猫の手野郎が当面の戦力になるためには「技術」が必要なんですよ。猫の手だからこそ才能を持った人から技術を取得し、邪魔になりたくない、できるだけ役に立ちたいと思うわけですよ。

もちろんそれは、才能ある人間から見れば、猫の手の現実的な補強という負の意味合いが強いのかも知れません。許しがたいと思う人もいるでしょう。でも最終的には才能のある人間の効率的な発掘に繋がるのではないかと思っています。
そして俺は思うのです。
いつか、お前なんてゴール裏にイラねーと、センスを持った50人ぐらいの人間に囲まれて、駆逐されることを夢見るのです。

ちなみに「サポーターならわかる」と、個々人のセンスに任せてしまうと、長い時間をかけても、結局のところは均一化しか繋がらないと思っています。少なくとも大きくなることには繋がらない。
なぜか。
センスがある人間がセンスのない人間を見ると、腹を立ててしまうからです。そして、それが連鎖する。最終的には、劣った人間が、より劣った人間を責め立てる連鎖。そういう集団の安定化は、均一化しかありえないんです。


でも...でもね...ここまで書いてきてなんですが...優れた技術ってのは、マニュアル化と表裏一体なんですよね。
マニュアル化された応援が、サッカーの応援として、果たして力を持つのか。
力を保ちつつ、マニュアル化することは可能なのか。
ここの部分、俺には、未だわからないのです。今後も答えが出るかもわからない。
ただ、今の横浜の何かを変えるとすれば、ここなんでしょう。
少なくとも、これを自覚した上で、次の道を選択すべきなんでしょうね。

ま、ゆっくり考えていきますか。
つか、じっくり腰を据えて取り組むしかないよな、と思っています。


【1/21朝、自分なりにわかりにくいと思われるところを、一部追記修正。「改善されていない」という苦情は受け付けませんw】

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コメント

ごぶさたしてますー。
えーっと、先天的な才能というか、
チームのが自分のものだ、という意識、あるいは無意識の思いがあれば、
必要なときに必要な動きができることにつながっていくのではないですかねぇ・・・?
ソシオの意義はそこにあったんだと、ぼくは今でも思っているんですが・・・。

・・・んま、途中リタイヤ組がこんなこといっても説得力がありませんけども(汗

ちょい遅いですが明けましておめでとうございます。
今年もつのだまさんの「語り」を楽しみにしてます。

私がつのだまさんに見て評して欲しいサポート体型に
ベティコ(スペインのベティスという中堅クラブ)の
サポ―ター達がいます。
ここも勿論コアなサポーター集団がいるんですが、
むしろ会場全体、ボールボーイから全てがそのクラブ
を愛している事がTVを通してでも肌で実感できます。
100年近くの歴史があるのにプレミアのように
洗練組織化されてない凄みとでもいうのかな
(会場にいる全員が責任を持って各々がクラブを
後押ししているので組織化する必要がない)
多分ですねこのベティコは試合終了後全員が
「試合を語れる」と思うのです。
私個人は応援風景の見栄えやチームに活力云々の
表層的な事が重要なのではなく、つまり応援が
統率とれてないから迫力ないとかではなく、一体化
すべきは客と試合だと思うんですな。
(一体化を拒否するようなトホホな試合内容だったら
拒否反応で一体化(笑)
不可抗力でその地域に生まれ爺さん、父さん、
3世代的お前がベティコになるのが嫌なら家から
出てけ!的先天的サポの素質というのかな、
Jにあったとしてまだ2世代でまだ到達していない
「100年気質(かたぎ)?」。
勿論、国民気質というのもありますから脳天気な
アンダルシアな人種と生真面目な日本人たる浜ッ子と
同列に論じるのはナンセンスかもしれません。
ただもっとサポートって自発的に涌きあがるもの
であって欲しいような。
「一つになるには「思い」の他に、共通認識、
技術が必要だ」という切迫した強制義務感に
さいなまれないもっとナチュラルボーンな体表現。
後者の人が書いてる「共通認識」はクラブ愛以外に
何かあるのかな?
にわかサポーターをいっぱしのサポーターに
育てるのが俺らの仕事みたいな必要があんのかね?
なんかおっさん臭いプロ野球応援団みたいで俺はパス
仮にそれが仕事であるならば人の輪を広げるのは熱い
応援風景ではなく「語り」だと思うわけです。
もし応援風景そのものが語りという人がいて
周りが乗らないとブ〜垂れるならその「語り」は
周辺に肝心なメッセージ(試合との一体感)を
伝えていないとは言えないか。
ゴール裏のつのだまさんは御存知ないでしょうが私が
年に数回友人に誘われ三ツ沢に行くとバックスタンド
中央に必ず応援に来てる同じおばちゃん(約60歳)
と青年(30歳前)を目にします。
彼らは他人同士の距離を離さず縮めずの微妙な
応援スタンスなんですが、会話がなくても共通認識は
がっちり成立しているわけです。
だからこんな彼らの存在メッセージ(語り)が同類を
作るとでもいいましょうか。
サポが増えるというのはこんな事を指すんじゃないか
と思ったりします。
何故ベティコを推薦するかというとこの会場での
サポ騒音は各々が点でバラバラな応援をしているのに
試合の流れと90分間恐ろしいほどシンクロしている。
(勿論ツボはしっかり抑えている)。これって全員が
魂込めて観戦に集中していないとできないことだよな
って感じっす。
これは技術ってことよりもどれだけ試合の流れと
シンクロすっか?ってことだと思い、
もし「どうやってシンクロすんの父ちゃん?」と
質問されたら
「試合をじっくり観戦して己の言葉で語ってみろ」
と(笑)
ただし私がベティスに胸一杯の愛を抱え、緑のユニを
着てマヌエル・ルイス・デ・ロペラでハイテンション
観戦をしてもベティコから見ればファッションとして
目に映るでしょう。
何故なら私にはベティコとしての生活臭がないから。
それは横浜でも栃木でも同じ。
とりとめのないカキコにて失礼。

つのだまさん、どうも。隊長@サッカー蟻地獄です。
「繋がるには均一化しかない」と言う考えは、現在の日本では唯一解だと思いますし、世界の多くの国で正解だと思います。ただ、世界ではそうではなさそうで、イングランドなどは明らかに「均一化」を最小限にしつつ、全体をつなげているということが見られます。

> センスがある人間がセンスのない人間を見ると、腹を立ててしまうからです。そして、それが連鎖する。

このあたり、泣くほど同意です。
まさに、分裂しているところで発生する現象そのものですね。

もう少し書いてみたいと思いますので、TBなどすると思いますが宜しくお願い致します^^;

>>まっきータン

どもどもご無沙汰です。
ソシオと(狭義の)サポーターは、かなりかけ離れた存在であったと思います。あの騒動の最中でも、そう思っていました。
少しきつめの言い方になってしまいますが、ここをごちゃごちゃにすると、何に失敗したのかを見失ってしまうと思うし、あの後あったことに対して正当な評価はできないと思っています。


>>縞梟タン

どもども。
総論ベースで言えば、かなり同意する部分が多いです。
ただこれって結局「そのままでも何とかなるさ」なんですよね。
極論すると「才能ある人間」と根底にあるものは同じ。
3世代後のイメージが、縞梟タン言うところのベティコなのか、「才能ある人間」のもつイメージなのかの違いでしかない。

この作文は、3世代後のイメージがテーマではないんですよ。
3世代分の時間を費やせば、必ずそうなるのかを自問自答しているのですよ。

当たり前の話ですが、これは誰も証明できない訳で...
だったら、100年後への道筋の付け方を考えてみるかと。僭越というより傲慢といったほうがいいテーマではありますがw
もちろんこのまま何もしなくてもいいという方法論もあるでしょう。でもある程度の期間「定点観測」していた人間からすると、その方法論は選択しづらいんですよね。

この辺は、僕の根底にあるサッカー界の常識に対する違和感が影響していると思います。
はっきり言って、サッカーを観るというのは、難しいです。
ベテランの観戦者(あえてサポーターといいません)は、その視点を忘れがちだと思うのです。
絵の例えとか、この辺を意識しています。

いずれにせよ、この辺は、もう少し継続的に取り組んで行きたいと思っています。期待せずにお待ちくださいw


>>隊長タン
どもども。いつも拝見させていただいております。
オフ、いろいろありまして、悶々と考えていた中、隊長タンのサイトから「技術」というキーワードを見つけ、飛びつきましたw
>もう少し書いてみたいと思います
楽しみにしております。
自分自身、まだ折り合いがついていないというか、手探りの状態ではあるので、また、考える上でのヒントがいただければいいなと、ムシのいいことを考えておりますw

どもです。
引き続き気の遠くなりそうな継続的な取り組みに
期待しております(笑)
誤審で勝った負けたで大騒ぎする癖に、こういう事に
ついてはほとんどのサポと名乗る人が口を閉ざして
しまうってのも「語り」の乏しさに寂しさを感じたり
するんですな(挑発すれば数人はノコノコ出てくるが
その前に「そのままでも何とかなるさ」調で
「つのだまブログが3代続けば集客は自ずと3倍
になる筈論(論理上)」
浅い知識で教育論をからめれば偏差値法が悪いと
なればゆとり教育、学力低下が著しいと又変更と
場当たり的な文部省指針の下、学校教育でまともな
子供の教育が展開されてるとは思えず、親は子供の
気持ちにはお構いなしで積め込み型の塾や習い事を
与えてればOKだと思ったりする。
教育の結果論は何を学んだかではなく、与えられた
学習機会に「自発性」が開眼して初めて評価される
ものだと思う。
(コアサポがその自発性を促がす役割を持っているか
どうかは現時点では判別できず=まして教育方針の
確固たる指導要領などは存在せず)
そして最近ないがしろになっちゃいないか家庭教育。
日頃は生真面目なサラリーマン。試合のある日限定で
熱血サポーター。
食卓でサッカーの会話がない家庭にサッカーの生活臭
はつきにくい。
「強い弱いは関係ねえ。地元にそのチームがあるから
愛すんだ。教育は丸投げされた教育現場で起こって
るんじゃない。原点は親父の語り(家庭)だ。」
フリューゲルス解散後、消え去った多くの人達は
Jブランドというファッションでのお付き合いだった
わけでサッカーを通して自発性は開眼しなかった
わけですな(これは情欲に溺れた男女が冷めて別れる
ニュアンス)
ある人はこういう「ソシオ問題?難しくてちょっと」
違うよお前らはつのだまさんを広報にしてまだ
ファッションにおんぶに抱っこなんだよ。
勝った負けたもええよ。でももっとサッカーの内面を
サポートするのがサポータって奴ちゃうんかい?
(これは情欲という脆いもので成立していない親子の
ニュアンス=情熱冷めても親は子を養う。子が自立
すれば親の面倒を見る。)
語らなくなったらJの3世代計画は成立しませんぜ
日本の旦那衆。
冒頭に戻り、つのだまブログが仮に1代で終わった
としたらそれはつのだまさんの教育責任です(笑)
(PS)
つのだまさんの「才能ある云々」という件は
「センス」と捉えていたのですが解釈が違うかな?
ファンションにはセンスの良いのもあれば悪いのも
あります。でも「愛し方」は表層的な部分を
超越すればそこに「センス」は求められないのでは?
(まして子供が無意識に出来ちゃったりするわけで(笑)
それとサポの名刺のない古株の私にしてみれば
10年強で日本のサッカーを取り巻く環境が一変して
こんなに拡大したこと(特に競技人口の増加)には
素直に驚いているのですよ。

ご免。
「絵を描く楽しさ」について書き忘れてしまいました。
確かにお絵描き教室に通った子の絵は上手い。
ただその後、絵を描く楽しさを継続して自分の物に
なるかどうかは子供の自発性にかかってくると
考えます。
(殆どの子が上手い絵を描ける子で終わってしまう)
仮にお絵描き教室で技術を習得しなくてもその感性で
豊かな描写(上手い下手ではなく)をする子供が
いますね。(色彩感覚とか)
私の持論ではそこが親の教育としての重要性で
「上手いなァこの絵は」という褒め言葉がどれほどの
効果を持つか。
どちらがいいかは一概には言えませんが、仮にセンス
というものに着目するのであれば、センスのない子が
技術を持たず表情豊かな描写を描くというのは
何故なんでしょうか?
私はこれは「絵心」だと思います。

>>縞梟さん

どうもうまく表現できていないなと自覚しつつw

絵の話で言えば、もしも「うまい」という褒め言葉が効果を持つならば、お絵かき教室での技術をもっと評価しても良いのではないでしょうか?
具体的な絵を見ずに言うのは何なんですが...
>センスのない子が
>技術を持たず表情豊かな描写を描くというのは
>何故なんでしょうか?
僕は、その絵よりも次の絵に興味があるのです。
技術を持たせれば、もっと素晴らしい絵をかけると思いませんか?
ご不快になられたら申し訳ないのですが、習った技術を必要以上に軽視しているように感じるのです。あるいは、技術を習得するのは苦しいものという思い込みがどこかにあるのではないでしょうか。少なくとも僕自身にはあります。だからこそ、少し考えてみたいと思っています。ダメ元でw

>つのだまブログが仮に1代で終わった
>としたらそれはつのだまさんの教育責任です(笑)
えーと、息子達にはいきなりサポーターは目指して欲しくありませんので、僕としては3代続かないで欲しいを思っています。
最初はやっぱ、選手を目指して「代表になる!」とか言って欲しいじゃないですかw


>つのだまさんの「才能ある云々」という件は
>「センス」と捉えていたのですが解釈が違うかな?

ターゲットとしては応援をリードする(誤解を与える表現だとは思いますが、あえて)意図を持った人です。その人たちが、どういう人までを直接の対象とするかによって、「才能」「センス」は、いろいろな幅を持つと思っています。
自分自身でまだ考えがまとまっていない部分であり、たぶん読む人にも伝わりづらいだろうなぁと思っていますw


>10年強で日本のサッカーを取り巻く環境が一変して
>こんなに拡大したこと(特に競技人口の増加)には
>素直に驚いているのですよ。

これはご指摘の通りだと思います。
もちろん、僕自身が「何とかなるだろう」という思いが捨て切れていないわけでw
黎明期(生まれた時からJがあった人間がスタジアムを満たすまでは、黎明期だと思っています)特有の悩みなのかも知れません。
でも悩みとか書いても、別に悲壮感はないのです。
考えを変えれば、悩みの解決策をあれこれ考えるのも、黎明期だからこそできる「
お遊び」の一種だと思っていますw

そろそろ私ではないサポの方がこの話に噛んで来ると
良いのですが(笑)部外者の私がコメント欄を戯言で
満たしているのを申しわけないと思いつつ
いや私もつのだまさんがサッカーを通して語る倫理や
哲学話が面白くて茶々入れてるだけですのでいつもの
調子で毒吐いて頂いて結構です(笑)
そうですね、確かに私の考えでは技術は後手に回って
ますね。
多分サポ集団の中と外での立ち位置の違いなのかも
しれませんが、サポ集団が技術修得し統率された
規律を持とうとする努力を軽視しているわけでは
ないんですが、黎明期の日本でのサポの傾向は
昇格までは「本物らしい熱気」で煽られ大きくなり
降格でそのまま萎んでしまったりと結果に左右される
「柔さ」を目にすると「技術」は人のつながりに
無力ではないかなという考えがベースにあるんだと
思います。
サポの定義が熱伸縮しない鋼の強さを持たないまま
「技術」がどういう効果を持つのかお手並み拝見です
(PS)
そうですかお子を代表に。
それは将来叩き(いじめ)甲斐がありますな(笑)

>>縞梟さん
どもども。

>昇格までは「本物らしい熱気」で煽られ大きくなり
>降格でそのまま萎んでしまったりと結果に左右される
>「柔さ」を目にすると「技術」は人のつながりに
無力ではないかなという考えがベースにあるんだと
>思います。

「柔さ」という表現は、適切だと思います。
ただ、人の繋がりに技術は無力というのは、どうかと思っています。
サポーター同士なんて結局のところなんら契約関係にないわけですから、技術云々以前に辛かったら辞めちゃいますよ。
この辺の「弱さ」を際限なく使っちゃうと、結局は個人の「気持ち」の問題に変質し、結局「柔さ」に結びつくと思うのです。
もちろん、最終的には「気持ち」の問題なんですが、その言葉を使う前に、まだやれることはあるのではないかというのが、この作文のテーマです。
もう少し具体的に言えば、自分の仕事を考えれば「気持ち」の問題以前に工夫していることって一杯あるわけじゃないですか。そこをもう少し考えてもいいんじゃないかなぁと思っています。

ただねぇ、こういうことを書くと、フロントの考えを代弁することと勘違いする人たちも出てくることも多く、僕の悩みは尽きないのですw
ちなみに、フロントとの距離感みたいなものは、今日か明日にでも書いてみようと思っています。横浜はチケット値上げという格好の材料があるのでw

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(コメントとトラックバックが反映されるにはつのだまの承認が必要となります。承認まで時間がかかる場合、承認しない場合がありますので、ご了解ください。)