墓標 −ソシオをめぐるお話 最終回−
ソシオと横浜フリエスポーツクラブの和解が発表された。
現ソシオ理事会。
現ソシオ会員。
横浜フリエスポーツクラブ。
呼びかけを行ったフリューゲルス再建基金管理委員会。
そして。
現在、過去を問わず、この問題の解決に尽力された、全ての方々に、感謝の言葉を贈りたい。
また、この問題に関わった、全ての方々に、ご苦労様と伝えたい。
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ようやく立てられた、墓標。
その下を、あえてほじくる必要なんか、ない。
ただ、と思う。
記録として不完全な現在の状況がそのままになってしまうのは、やはり少し残念ではある。
当たり前の話だが、ソシオ、横浜フリエスポーツクラブとも、清算した過去に組織だって触れることはないだろう。
いや、はっきり言えば、触れて欲しくない。
間違えちゃいけない。生き行く者が向くべきは、前だ。
取り組むとすれば、個人だろう。
墓標を、道標に。
もし手がけたいと思う奇特な人がいたら、いつでも連絡して欲しい。
貧乏性からか、殆どの郵便物が残っているので。
ま、急ぐ必要はない。
墓標の文字が読めなくなる頃までに、考えればいいさ。
そして、その頃まで誰も取り組もうとしないのなら、その程度の問題だったってことだ。
それも歴史の評価のひとつである。
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人は、他人の「痛み」「苦しみ」「悲しみ」を想像することはできる。
でも、他人の「憎しみ」を想像することはできない。
想像できない「憎しみ」は、新たな「憎しみ」を生む。
何より、「憎しみ」は、人を強く結びつける。
俺があのゴタゴタに中で、唯一学んだことだ。
もし万が一、この問題に取り組もう、振り返ろうと考える人がいたとしたら、このことを心の片隅に置いて欲しい。この問題を「把握」するためには「他人の憎しみ」と向き合うことが、どうしても必要になる。それに目を背けた「解釈」は、あまりにも軽く、鼻白む。
また、今の三ツ沢の雰囲気を考える上でも、「憎しみ」は一つのキーワードである。
三ツ沢には、まだ、たくさんの小さな「憎しみ」のコミュニティーが存在している。
「全日空への憎しみ」
「日産への憎しみ」
「マリノスへの憎しみ」
「YFSCへの憎しみ」
「ソシオへの憎しみ」
「旧ASAへの憎しみ」
「TIFOSIへの憎しみ」
そして、個人を対象とした様々な憎しみ。
etc.
目を背けず向き合えば、今回の和解の本質的な価値が浮き彫りになる。
そう。
もう、過去が、少なくともあのゴタゴタが、新たな「憎しみ」を生産することはないのだ。
俺は思う。
そのことをもっと積極的に評価すべきである、と。
今回の和解に関わった人全てに、大きく胸を張って欲しい。
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三ツ沢から憎しみが消えるまで、まだまだ時間が必要だろう。
意識的に無意識に、その憎しみが顔を出し、まだしばらく迷走することがあるだろう。
それでも、その状況を変えようと、努力している奴らがいる。そこから抜け出そうと、もがいている奴らもいる。
少しずつ、少しずつ、その数が増えている。
そのことがとても頼もしい。
願わくば、目の前の仲間意識に惑わされることなく、本質を見失わず、その動きを見守って欲しい。
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今と、少し先の未来と、ずっと先の未来。
三ツ沢が、青白のネイティブフットボーラーに満たされる日。
きっと、今よりうまい酒がのめるだろう。
憎しみさえ、肴にして、ね。
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最後に、もう一度、関わった全ての方に感謝の言葉を。
おめでとう。
ご苦労様。
そして。
ありがとう。