つのだまぶろぐ

2003年01月04日

ソシオは「ありえた」のか?(前編) −ソシオを巡るお話4−

最近ここにくるようになった人は知らないだろうが、「ソシオを巡るお話」というシリーズも書いていたりする。

昨年2月に最後の文章を書いた後、読んでくれた人から「そもそもソシオ制度はありえたのか?」という質問を頂いていた。
今日と明日の2回に分けて、それについて書いてみようと思う。ちなみに、何か心境の変化があったわけではなく、単なる作文欲に駆られてのことである。まぁ、もうすぐ一年になるので、途中経過でも何でもいい加減書いておかないと申し訳ないという、人間的小ささも理由の一つである(笑)

なお、文中に出てくるソシオとは、私が会員であった第1期〜第3期までのソシオ・フリエスタのことであり、現在のソシオとは関係のない。ただしこれは、現ソシオの組織の継続性を否定するものでも肯定するものでもない。

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結論から言えば、ソシオ制度は、ありえなかった。
少なくとも、当初目指していたソシオ制度は、ありえなかった。

言っておくが、フロントがバカだからではない。
ものすごく勘違いされているようだが、俺はソシオ崩壊の原因をフロントの行動だとは思っていない。これは、前述の「最後の文章」を読めばわかるハズだ。
あと、人材が足りなかったわけでもない。よくこれをエクスキューズにする奴がいるけど、単なる思考停止だ。断言してもいい。これを口にする奴は、どこかで絶対に同じ間違いを繰り返す。

ソシオがありえなかった理由は簡単だ。
ソシオそのものに、楽しさが無かったからだ。
そして「苦しさは分かち合える」という間違った考えから、抜け出せなかったからだ。

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「ソシオそのものに楽しさがない」

よく言われていたことだ。このこと自体に、何も目新しさはない。
当初から、これに気付いていた人はたくさんいて、彼らは、本当にいろいろ考えていた。俺なんかよりもよっぽどね。でも言わなくちゃいけない。
全て間違いだった。

なぜか?
その殆どが、「楽しさ」をスタジアムの外に求めたからだ。
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忘れているバカもいるようだけど、横浜FCは、観客のワガママから生まれたんだ。
ソシオは、その観客のワガママから生まれた横浜FCを支えるために存在した。
原点は、あくまでもスタジアムの観客だ。
ソシオは、スタジアムの中で、楽しさを探さなければならなかった。

「スタジアムに来る人だけが、横浜FCを支えているわけではない」
「地方の人間を軽視するのか」
「スタジアムの中には、それぞれの人のそれぞれの楽しみ方がある。強制されたくない」

こういうくだらねーことをいうバカを大事にしすぎた。
一見すると正しそうな本質を見誤らせるバカどもの意見をな。

原点を見つめれば、スタジアムに拘らなければならなかった。スタジアムに楽しさを求めなければならなかった。
何も難しいことをしなくても良かった。スタジアムの中で、ソシオが座る位置を位置を決めるだけでも良かったんだ。

居場所をつくるっていうのは、とっても大事なことだ。人間関係ってのは、実際に会って話すところから始まるんだ。そして楽しいことは、人間同士のコミュニケーションから生まれるんだ。
スタジアムに居場所を作るというのは、たまにしか来られない人たちを軽視することにはならない。
そこは、たまにしかスタジアムに来られない人間たちを受け入れる場所になるからだ。
まぁ、実際にそういう場所を作ったとしたら、注意しなきゃいけないことは一杯ある。それを書き出したら、気の遠くなるほど長くなるので、書かないけどね。

(明日に続く)

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