代表の試合は、前半15分で寝てしまった。
爆竹のシーンと高原の得点シーンで嫁さんに叩き起こされた。
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YFSCとソシオの対立の問題は、いくつかのフェーズに分けることができる。
時期とその時期に発生した主な出来事(あるいは議論の中心)を書いてみる。
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第 1フェーズ[2000/05〜09]
辻野YFSC社長(当時)の公開理事会での発言をきっかけとした、YFSCの経営危機および社内対立の表面化
第 2フェーズ[2000/09〜10]
株主(当時)による、辻野解任要求と新取締役の就任要求およびそれに対抗して密かに進められたYFSCによる増資計画
第 3フェーズ[2000/10〜11]
YFSC株式の所有のあり方をめぐる、YFSC&第2期ソシオ理事会とソシオ会員の対立
第 4フェーズ[2000/11〜2001/01]
第3期ソシオ理事選挙
第 5フェーズ[2001/01〜02]
組織として意思決定を行えない理事選挙中にYFSCから送付された協約書の送付とそれを巡る混乱
第 6フェーズ[2001/02〜03]
YFSC、第3期ソシオ理事会間での協議と暫定合意
第 7フェーズ[2001/03〜04]
YFSCによる暫定合意発表の引き伸ばしと一方的な破棄
第 8フェーズ[2001/04〜05]
第3期ソシオ理事会による弁護士見解の発表
第 9フェーズ[2001/05〜09]
沈黙(この時期、表立った動きはない)
第10フェーズ[2001/09〜10]
YFSCによるソシオとの関係解消と新組織(クラブメンバー)の発表
第11フェーズ[2001/10〜2002/01]
第3期ソシオ理事会による仮処分申立と第4期ソシオ会員の募集
第12フェーズ[2002/01〜2002/02]
仮処分申立の却下と第4期ソシオ総会の開催
第13フェーズ[2002/02〜]
沈黙
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...ごめん、見出し書いているだけで、お腹いっぱいになってきた...
改めて振り返ると、すごいね。よく関わってきたな、俺(笑)
でも表面化する前から深く関わってきた人たちもいるのだから、俺なんかまだましな方かな...慰めにもならんが(笑)
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で、ターニングポイントである。
これだけあれば、ターニングポイントなんて、大中小取り混ぜて、山のように思いつく。しかし、一つだけあげろ、といわれたら、私は迷わずに第2フェーズにおける「株主(当時)による、辻野解任要求と新取締役の就任要求」を選択する。
あの時出された、辻野解任要求。
これにより、反YFSCの立ち位置が大きく変わってしまったのだ。
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YFSCを正常化するのであれば、新取締役の就任要求だけで良かった。
取締役の就任要請だけであれば、YFSCはそれを断ることは出来なかった。いや、万が一、断ったとしても「傷」は、YFSCだけについていた。嫌悪されることを覚悟の上で、もう一歩踏み込めば、「J2のための一致団結」という旗印を、反YFSCが使うことができたはずだ。
そして(表面的には)YFSCとソシオが協力して難局を乗り切るというポーズをつくることで、「横浜FC」「ソシオ・フリエスタ」というブランドを、ここまで貶めることはなかった。
辻野解任要求が出されたことで、当初から株主の排除を指向していたYFSCの行動に根拠が生まれた。さらに「J2のための一致団結」を旗印に、多くのソシオを取り込むことに成功した。言い換えれば、反YFSCは、本来であれば自分達と同じ立場にたってくれるであろう多くのソシオ会員を、失ってしまった。
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「勝ち負けを争っていたわけではない」
一連の事態について、そう言う人もいる。
しかしあの時の解任要求により、対立は内紛にその色を変えたのだ。
好むと好まざるとに関わらず...
それを認めることができないということは、自らの立ち位置を見失ったということだ。
自らの立ち位置を見失えば、当然、迷走し、自滅していく。
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もちろん、私自身当時から、このことを意識していたわけではない。株主の要求を知った時、「社長が経営責任を問われるのは、当然」と考えた。
何も戦略性を持たない一面的な思考に捕らわれていた自分に赤面する。ひたすら、恥じる。
しかし、それでもあえて言いたい。
見えない引き金を引いたのは、辻野解任要求を出すという意思決定に関わった奴らだ。ソシオ崩壊の一因であり、その重みは、YFSCと同レベルだ。
あの時、辻野解任要求を出すという意思決定に関わった奴らは、今、ソシオに謝罪すべきである。